1 記号学とは

1.1 記号論と記号学

記号論という学問(領域)は比較的新しい分野である。ジョン・ロックが『人間知性論 (人間悟性論)』( John Locke, An Essay Concerning Human Inderstanding, 1689)の巻末で学問を三分割した際に命名したのが最初と言われている。 その後、19世紀末から20世紀初頭にかけ、言語学の側からソシュール(Ferdinand de Saussure)が、また論理学(プラグマティズム)の側からパース(Charles Sanders Peirce)が、互いに没交渉ながら、相次いで記号学/論を提唱し、両者が今日の記号論の源流とされる。

記号論ロック、パース、モリスの 系譜
記号学ソシュールにはじまりバルトに至る系譜


前者は諸記号間の関係、記号と指示対 象の関係の分析等、制度としての記号内現象を主たる対象とする。後者では言語のみならず、人間の表情・身振り、芸術作品、神話・伝説、宗教とその 付属物、メディアとその表示物、建造物、都市、つまりは人間の被造物である文化一般、そしてときには自然をも記号として捉え、これらの人間にとっての 本質的な意味と、これらにかかわる人間行動とを研究の対象としている。マス・メディア接触を含むコミュニュケーション行動のみならず、何らかのもの・こ と・ひとに対する社会行動にはつねに広義の意味が介在している。むしろ意味なしの行為などありえない。従って記号論・記号学の知見は社会的存在とし ての人間の行為の理解に寄付している。
-----濱嶋、竹内、石川編『社会学小辞典』(有斐閣 1997)
「学」と「論」との違いを日本語の問題として考えるならば、一般的に、確立した体系をなすものが「学」で、現在進行形で生まれつつ(確立しつつ)あるようなものを「論」と区別する場合が多い。この類推からすれば、「記号学」はすでに形が整った学問だといえるし、「記号論」の方は諸説が乱立しつつもこれからその全容が明らかになるような《学問》といえよう。
が、ここでは違いをさほど気にしなくてもよいかな。 *

1.2 記号論と意味論

言語学において音韻論や形態論などは比較的早くから研究が進んでいた分野であるけれども、最も遅れてやってきたといわれる のが意味論である。この意味論とは、読んで字の如く《意味》を中心に扱う分野であって、ソシュールのいう記号のシニフィエ(signifie: 記号内容:所記)にもっぱら焦点を当てる。そして意味論がさかんに論じられるようになる(1960年代以降)と、記号のもう一つの側面 であるシニフィアン(signifiant:記号表現:能記)から、あたかも意味論が分離独立して成立するかの如く思われ、その結果、記号論 はシニフィアンのみを扱うもとのとして、シニフィエを扱う意味論とは対峙的に論じられるという錯覚が生じた。 けれどもソシュール記号学(第3回講義以降に詳しく論じる)において、記号はシニフィアンとシニフィエからなり、両者は表裏一体 の関係にあるわけで、たとえシニフィエを中心に論じる分野を「意味論」と呼ぶにせよ、記号論はシニフィアンのみを対象にするので はなく、意味論をも取り込んだところの記号(signe:signifiant/signifie)全体を扱う学問とみなす。

1.3 記号論と言語学

ソシュールは言語学を含む来るべき記号の学問として《記号学》を構想したが、ソシュール自身は言語記号以外の記号について 「記号論」を打ち立てたわけではない。その後、言語記号以外の分野で記号論にいち早く挑戦したバルト(cf.『モードの体系』:Roland Barthes, Systeme de la Mode, Seuil, 1967:分析自体は1957-1963年に行われた)は、自らの経験から、非言語的領域の対象を分析 するにしても言語を媒介することなしには行なえないと実感し、記号学はソシュールが提唱したように言語学を内包するのではなく、 逆に記号学を含む言語学が必要であろうとした(cf. Communications 4, Seuil, 1964, p.2)。ただし、バルトがいう言語学とは従来の言 語学ではなく、trans-linguistique であり、いわば言語学をこえた「超言語学」であるため、「超言語学 > 記号学 > 言語学」という図 式が成り立つ。 そこに「記号論」を介入させれば、超言語学を内包するものが記号論であると言えなくもなさそうであるが、ここでは、バルトのいう 「超言語学」こそ「記号論」ではないかという観点から、「記号論 > 記号学 > 言語学」と整理しておこう。

1.4 記号論と構造主義

記号論は構造主義が一世を風靡した後にようやく認知されたとはいえ、ポスト構造主義が記号論なのではない。それぞれの名称 が示しているのは、記号論が記号という「領域」であるのに対し、構造主義の方は「方法論」を示している。構造主義は文化人類学や 文学研究にとどまらず、様々な分野での分析手法として用いられたわけで、もちろん記号論だけを示すものではない。けれども、記 号論について、その領域ではなく、記号論の方法はといえば、基本的に構造主義的である。 グレマスによれば、構造とは二項の存在と両者間の関係であり(Algirdas Julien Greimas, Semantique structurale, coll. Langue et langage , Larousse, 1966, p.19)、構造とはすなわち関係の把握でもある。われわれが記号論が問題にするのは関係性であると 指摘したのもこうした構造の概念を念頭においてのことである。

2 記号論の概要

2.1 |記号|→|意味|

|記号|→|意味|というのはある記号があれば、そこから意味を解釈するということである。|記号|→|意 味|の関係は恣意的で相対的である。記号論というのは世界を推論することである。新聞の週刊誌の広告を読み合わせることによって、郷ひろみと松田聖子はどうなるだろうかと推測するのも記号論である。職場の人事を、断片的な情報を組み合わせて大胆に予測するのも記号論である。 *

2.2 差異

記号にとって差異というのは大切だ。差異によって価値が決まるのであって相対的なものである。ソシュールは

「すべては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す」


と話している。記号にとって大切なのは他者との関係である。差異である。実質ではない。ソシュールがチェスに喩えた話は有名だ。

もし、ナイト(騎士で将棋の桂馬に相当)の駒をなくしてしまっても、手近にある別の道具で代用できる。ナイトのように 馬の上半身の形をしていなくてもいい。別の余っている駒に目印を付けてもいい。区別がつけばいいのだ。つまり、対立があれば十分なのである。チェスのキン グの価値というのは全方向へ動くことができて、取られたらゲームが終わりである。しかし、どこにいるか?何が残っているか?相手はどこにいるか?など局面で 大きく価値が異なる。


言語もチェスの駒と同じだという。他の言葉との差異の関係だけで意味をもつ。これをソシュールは「価値」(valeur)と呼んだ。語というのも他の語との関係という網の目における位置によって、その意味を獲得するにすぎない。ソシュールは次のように語った。

ゲームのそれぞれの状態は言語の一つの状態に対応している。それぞれの駒の価値はボードにある位置によって決定される。言語においても、それぞ れの語の価値は、他の全ての語との対立によって決まる。

*

2.3 隠された意味

言語は有限の手段によって無限のものを指すことができる。名指される対象はそれぞれの社会によって違う評価を与えられているから対称的意味の他に評価 的意味を持つことがある。対称的意味、明らかな意味、明示的な意味を「デノテーション」(denotation)、評価的意味、隠れた意味を「コノテーション」(connotation)と呼ぶことがある。後者 を隠された意味、「言外の意味」があるということもある。「山田君の彼女は薔薇だ」という文はデノテーションでは非論理的な文章になる。「薔薇」のコノテーションを考えれば「薔薇のように美しい」ということになる。もち ろん、「彼女」を「好み=趣味」と考えて「趣味は薔薇(作り)だ」という可能性もある。更に「彼女は薔薇のように美しいが棘がある」という意味にもとれる。 *

2.4 情的理解と知的理解

絵画や彫刻も記号である。例えば、仏像は手の曲げ方や足の開き方、顔の表情など細かい点が決まっている。これらを読み解くのが「図像学」(iconology)と呼 ばれる学問である。“icon”というのはギリシャ語で「図像」の意味を持ち、美術史用語としては東方正教会の影響下で発達した板絵やフレスコ画、写本、モザイク 画に表現された聖人や聖母、キリスト像などを指して使われる。
小説や絵画や歌曲などを理解するのに、感性で理解することがある。特に日本人は感情に訴えかけるものに弱い。一方で、知性で理解することもできる。宗教画や神話を描いた絵や彫刻はその典型かもしれない。例えば、ブランコを楽しむ男女の絵があるとしても、それはただデートを楽しんでいると考えてはいけ ない。ブランコは豊穣と結びつけて考えられたし、動きは性行為のリズムだけでなく、四季や太陽や月の出入りを表す。 *

2.5 二次的な意味

僕らはおいしいから飲んだり食べたりしているのではない。モノとして消費しているのではなくて、記号を消費しているのである。能書きに弱いのである。

/|記号|→|意味1|/→|意味2|

つまり、|ジョニ黒|→|イギリスのウィスキー|というのが|ジョニ黒|→|舶来の高級な高価なおいしい素晴らしいウィスキー|という二次的な意味が派生 してくる。これは|意味1|という本質や機能や内容とは離れた形式や記号としての価値が生まれているのである。記号を消費するとというのは二次的な、記号的な価値を消費しているということである。人はパンのみに生きるにあらず。記号を食べて生きているのである。だから「ジョニ黒」と書かれたボトルの中身を代えても分かる人は少ない。 *
だったら、本物とは何だろう。みんなが追い求める本物とは何だろう?ホンモノが相対的な価値しか持っていなかったのだから、ニセモノとホンモノの逆転はよくあることである。コロッケの方が美川憲一よりも面白いということがあり うるのである。一次性をもっているホンモノよりも二次性のニセモノの方が価値が出てくることがある。これがディコンストラクションである。 ディコンストラクションというのはオリジナル自体がコピーであり、シミュラークルにすぎないということによって上下の関係、一次性・二次性、内容と形式、中心と 周縁、ハレとケ、現実と虚構、科学的知と神話的知、本物と偽物、知性と感性、理性と狂気、本音と建て前、生産と消費、音声と文字、科学と非科学、正統と異 端、美川とコロッケを逆転させることなのである。

3 コミュニケーションと記号




図2 コミュニケーション・モデルA(Shannon & Weaver 1949: 37より作図)

云うまでもなく、この図式における「意味ノイズ」は、送信者がメッセージを送信用信号に変換する際に介入する「何らかの干渉」を示し、「意味受 信機」は、受信者が受信された信号をメッセージとして復元する際に介入する「何らかの変換装置」を表わしています。つまり「メッセージ」は、「送 信者→信号」間と「送信機→受信機」間と「受信機→受信者」間の三ヶ所に置いて「歪曲」される虞れを持つというわけです。 なるほどこれは、わたしたちのコミュニケーションにたいする感覚に合致している気もします。しかし、どうでしょう。「ノイズ」や「意味受信機」とは、 厳密に云えば何に当たるのでしょうか。
もう少し言語学的な視点からのコミュニケーション・モデルを見ると、ソシュールの有名な「記号(signe)」図とは図1のようなものになります。


図1 signe (Saussure 1916: 69)

ソシュールによれば「記号」とは、「概念」(concept)と「聴覚映像」(image acoustique)が表裏一体となったもので、両者が相互的に他方を呼び起 こす構造になっています(3)。たとえば[ネコ]という音を聞けば《ネコというもの》を想起するというわけです。「概念」(concept)とは、たとえば「猫」であるなら、猫について知っている百貨辞書的知識(脊椎動物である、ヒゲがある、ニャーと鳴く、etc)であり、「聴覚映 像」(image acoustique)とは、[ネコ]という「音のイメージ」、謂わば「名称」である。ソシュールは、これらを「記号作用」(signification)の面から捉えなおし、それぞれ 「シニフィエ」(signifie=記号内容)と「シニフィアン」(signifiant=記号表現)と呼んだ。これを基に、ソシュールは図2のような図式を提示していますが、これもコミュニケーション・モデルの一種です。


図2 コミュニケーション・モデルB(Saussure 1916: 28)

図2における○は「話し手−聞き手」を示しており、話し手の中で「概念→聴覚映像」という変換の結果、一定の「音」で「発話」がなされると、それ を聴き取った聞き手は、その音から「聴覚映像→概念」という変換をなし「理解」するというわけです。つまり、この「→」の部分が、シャノン&ウィー ヴァーの「意味受信機」に相当すると云えるでしょう。 そして、聞き手はただちに話し手に、話し手も即座に聞き手に変化するわけですから、反対の矢印も描き得るというわけで、「話し手・聞き 手」といった指定のない左右対称の図式になっています。



図3 コミュニケーション・モデルC(岩本 1997: 124)

図3のモデルは、図2をより詳細にしたものとも考えられますが、意味するところは明らかでしょう。すなわち、発信者が送り出す「伝達内容」 は「コード」を参照し「記号化」することで「メッセージ」となり、受信者はその「メッセージ」を、やはり「コード」を参照することで「解釈」し「伝達内容」 を復元する、というわけです。これが所謂「コード・モデル」の典型的な図式であることは、すぐお判りでしょう。 この図式では「コード」、すなわち「メッセージ・記号形態」化するための「規則」が、「発信者−受信者」の「コミュニケーションの場」(コンテクスト)の外に置か れています。これはつまり、「コード」が「発信者−受信者」に共有されているもの、さらに云えば、両者も越えた「共同体」に共有されている「資 源」(ressources)であることを表わしています。 これは当然のことでしょう。なぜなら、「コード」が共有されていなければ、たとえば「猫がいぬ」とか「犬がねこむ」と云った「発話」は理解され ないはずだからです。