現代絵画はオマージュであったり、パロディであったり、多くの引用を含むが、これらを読み解くのはまさに記号論的な営みである。文学研究というものが曲がりなりにも成立するのは、文学が情的ではなく、知的に解釈できるからである。例えば、小林一茶の「めでたさも 中くらいなり おら が春」という俳句は情的に読めば、雪国の春はまだ遠く、人生にはいいことも悪いこともあって、中くらいで満足する一茶の牧歌的な姿となる。ところが、これが何度も生まれた子どもを死なせてしまった、一茶の悲しみの中で書かれた俳句で、その後も子宝に恵まれなかったことを知的に理解すると、ま るで様子が違ってくる。悲しみの深淵が見えてくる。