なお、記号論にはパースに始まるアメリカ流と、ソシュールに始まるヨーロッパ流がある。
もともとは、ソシュールの流れを汲むヨーロッパ(とりわけフランス)において semiologie が広く用いられ、パースの系列に属す英米系では semiotic が用いられていた。しかしながら、フランス語圏においても、semiotic の仏訳としての semiotique と、従来の semiologie とが競合しはじめ、1969年に「国際記号(論)学会(International Association for Semiotic Studies / Association internationale de Semiotique)」が発足した際に、ヤコブソンの提言によって《セミオティック (Semiotic / Semiotique)》が採用されてからは、semiologie は姿を消し、《セミオティック》に統一されるはずであった。(しかしながら、その後もプリエートやムーナン、学会設立に参加したバルトさえも一貫して semiologie を使い続けたことは知られるとおりである。)
日本語訳としては、従来 semiologie を「記号学」、semiotic(s) を「記号論」と訳し分けていたようであるが、近年、パース系の semiotic(s) を semiologieより広い概 念として優位におく立場から、semiotic(s) を「記号学」と訳すようになり、事態は混乱している。まさに記号の問題に発展しているのである。 われわれとしては、この際、訳語云々ではなく、日本語的感覚から、パースやソシュールらのいわば原理論的部分を「記号学」、その延長線上にあり、今後もさらに外延を広げてゆく部分を「記号論」と了解することにしたい。ただし、あえて「記号学」と限定する場合を除き、通常は「記号論」を用いることにする。
当たり前だが、「記号論」というのは「符号」を扱うのではない(ただ、中国では「記号論」を「符号論」というからややこしい)。音符や道路標識を扱う学問ではない ので、がっかりしないでほしい。
本格的に勉強したい人は池上嘉彦『文化記号論への招待』(岩波新書)や『詩学と文化記号論』(筑摩書房)、エーコ『記号論』(岩波書店)、その他、クリステヴァ や山口昌男の数多くの著作を読んでください。