人は差異を求める。 大学であろうと、ブランド大学の方がいい。さすがに企業はそんな馬鹿なことは考えなくなったが、一般にはまだまだだ。ブランドのトップである東大の中に差異はないかというとある。例えば、文学部の先生は教養学部の先生より上と考えているかもしれないし、同じ大学院生でも ちゃんと入試から入ってきた人と、学士入学からの人と、大学院だけの人と区別し、男性と女性を区別するかもしれない。つまり、大学は真理に従属するはず だったのが、真理が大学に従属するようなことがあるかもしれないのである(本当のところは知らない)。 一番低いところだって差異を求めようとする。そうしていわれなき差別が生まれてくる。社会主義は人類の平等を模索する大実験だったが、人はみんなと平等ではなく、差異を求めた。隣の芝生よりちょっとでもいいものを求めたのである。そうし て、実験が終わった。
人は記号で生きるのであってパンで生きるのではない。自然の恵みのパンではなくて記号としてのパンである。差異で生まれた「記号的価値」を消費しているの である。記号的価値を生み出す源泉は言語である。言語が今ここにない、ありもしない現実や欲望を喚起する。バーチャルな言語がある限り、人間の欲望は無 限である。とりわけ、高度消費資本主義ともいうべき、消費社会の神話が社会主義を葬った。
現代芸術は絵画にしろ、文学にしろ、音楽やオペラにしろ、映画にしろ、オーソドックスから離れ、ヘテロドックスなものになっている。つまり、美川憲一の 前にいきなりコロッケを見せられるような状況である。